國學院大學の学びについてご紹介するこの連載。
第1回は文学部特別専任教授の上野誠先生に、國學院大學の学問や、ご専門の万葉集研究について、横山聡男子部長がお話を伺いました。
世界を知ろうと思う者は、まず、足元を見つめよ
――上野先生は大学の同じ研究室で過ごした大先輩です。
万葉研究の第一人者として、昨春、國學院大學文学部に戻られました。30年ぶりの母校はいかがですか。
僕らが学生の頃とはずいぶん違います。キャンパスも学生も垢抜けていて、時の流れを感じました。ただ、古典や歴史に詳しい学生が「万葉集と律令国家はどのような関係にあるのか」などというテーマで熱く議論できる場所であることに変わりはありません。いきいきと学んでいる姿に触れて、本学の源流ともいうべき「世界を知ろうと思う者は、まず足元を見つめよ」という考え方が、脈々と受け継がれていると感じています。
國學院大學(当時は皇典講究所)が生まれた140年前は、欧米に学ぶことが主流の時代でした。伊藤博文は憲法の草案を作るため、法律を学ぼうと欧州へ。そこでドイツの憲法学者、ローレンツ・フォン・シュタインから思わぬ指摘を受けます。「どんな憲法を作りたいのか」と尋ねられた伊藤は、「ドイツ、イギリス、フランスの憲法の良いところを合わせて作りたい」と答えると、「君の国の法律だろう。まずは過去にどんな法律が存在していたか。それを調べるべきではないか」と返されたのです。シュタインが言いたかったことは、まさに「まず足元を見つめよ」でした。
こうした問答が各所で起きていた時代に、いち早く自国の文化に目を向ける教育機関として始動したのが國學院大學です。神道精神のもと、国史(国の歴史)、国文(国の文学)、国法(国の法律)を柱とし、国学(広い意味での日本の伝統文化学)を研究する私立の教育機関として発展していきます。
長い歴史の中で優秀な学者を数多く輩出していますが、國學院大學の古典研究は常に教育とともにある、ということを世に知らしめたのは、日本で初めて万葉集の口述による現代語訳を行い、自学自習に役立つ万葉集辞典を作った折口信夫(おりくちしのぶ)先生だと思います。明治後半から中等教育、高等教育が普及し、中等学校で国語・漢文が課されるようになりましたが、教えられる先生はほとんどいませんでした。当時、大阪の今宮中学校で教師をしていた折口先生は、この課題を解決しようと知恵を絞り、行動したのです。
その後、国文学者、民俗学者だけでなく歌人としても活躍したのですから、その才能は計り知れません。
神道文化や国史、特に古代に書き残された文献や史料においては、國學院大學にその研究の中心があります。そういう分野に興味がある人は、ぜひ國學院大學博物館に足を運んでほしいですね。蔵書や資料の豊かさから歴史を感じることができます。いかに優れた学者を多数輩出しているかもわかるでしょう。その流れの中に自分も入って行く、という気持ちをもって入学してもらえると、私としても大変うれしいです。
万葉研究のおもしろさは万葉びととの対話にある
――なぜ、万葉集に惹かれたのですか。
私は考古学好きの少年であり、歴史好きの少年でした。心が惹かれるままに、歴史学、民俗学、考古学などに関する書物を読みあさるうちに、「歌」にも関心をもつようになりました。その時代を生きた人々の心や暮らし、特に宴(うたげ)や祭りに興味があり、大学では史学か文学を学びたいと思っていました。
高校の先生の勧めで國學院大學文学部に入学すると、「大学での勉強は教室だけでわかるものではない。研究室に行って掃除やお茶汲みをしながら、先生の仕事ぶりを見せてもらいなさい」と父に言われて、早々に万葉集研究の櫻井満教授を訪ねました。そういうことなら、と承諾してくださり、授業のない時は研究室で過ごしました。櫻井教授の研究室は折口先生の学問伝統を受け継いでいて、日本全国から万葉集を学ぼうとする学生が集まっていました。教授は毎日のように学生に質問をさせて力量を計っていましたから、おのずと万葉集との向き合い方や、自分らしいものの見方、考え方が培われていきました。
――当時上野先生は万葉挽歌(ばんか)(死者を哀悼する歌)の研究に没頭されていた記憶があるのですが。
大学院の後半はそうでした。今の学界は大伴家持研究にシフトしていますが、当時は柿本人麻呂の研究がものすごく盛んで、その中でも「殯宮(もがりのみや)」(棺を仮に安置する御殿)の設営地の研究が重要視されていました。私は民俗学の授業を熱心に受講し、理解を深めていましたし、民俗調査もしていました。そのため儀礼の分析研究にはそれなりに自信をもっていたので、挽歌の論文を書き続けました。
その時は、認めてもらいたい、という気持ちが勝っていましたが、挽歌に惹かれたのは中学2年生の時に祖父の死に立ち会い、大学4年生の時に祖母の死に立ち会い、大学院生の時に父親の死に立ち会って、人間の死を意識していたからだと思います。一人残った母も、7年間の介護の末に看取りました。2016年のことでしたから、43年間にわたり身内の死と向き合ってきたことになります。こうした個人の体験にも社会や心性(心のあり方)の変化などが凝縮されていて、私も歴史の中にいる一人なのだと実感しています。
――上野先生の万葉集解釈は秀逸です。現代人にストンと落ちる現代語訳の秘訣を教えてください。
逐語訳だと現代語として破綻しやすいですよね。そこで、一つひとつの語法や語彙の扱いを考えながら見ていくと、創作に近づいてゆきます。他のジャンルでもそうなのかと気になって、外国文学の研究者に尋ねてみたところ「環境が違うので、原文をそのまま訳せるわけではない」とのこと。万葉集との時空の隔たりをうめるため、私は「体感訳」と称する独自の手法で訳すことにしました。
その手法は、「生活」「心性」「表現」の三つの基点から、歌が生まれた背景を立体的に繙(ひもと)くというものです。最初に「生活」に着目したのは、あの折口先生でした。私は、万葉学に民俗学の知識を応用した折口先生の手法を踏襲しつつも、自分が好きな考古学や歴史学の知識も織り交ぜて、作者の実感を意識した解釈を心がけています。
例えば、万葉集の歌の中に「解き濯(あら)ひ衣(ぎぬ)」という言葉があります。それは、着古した衣の縫い糸をほどき、布の状態で洗濯して仕立て直した着物のことです。古代の女性にとって洗濯は重労働でした。そういう暮らしや社会と「解き濯ひ衣」との関係に着目して書いた論文は、国語学をベースとした万葉研究で知られる井出至先生に「これは君にしか書けない」「國學院らしい」と褒められました。「解き濯ひ衣を着たい」とは、「早く洗濯してさっぱりとした着物が着たい」ということです。では、なぜ着たいのか。それを考える際に、正倉院文書の「請暇解(せいかげ)」(今でいう休暇願)が頭に浮かびました。衣服が豊かではない時代は、洗濯のために休暇をもらうことが多く、そのつど「請暇解」を出します。その休暇に恋人と会うのです。つまり旅の歌の中に「解き濯ひ衣を着たい」という言葉があれば、「恋人のもとに早く帰りたい」と解釈できます。一点を掘り下げるために、いろいろな学問の知識を応用して工夫できるところが万葉研究のおもしろいところです。
自分自身と向き合い、好きなことを見つけよう
――先生の人生はまさに「万葉集」一筋ですね。
その通りです。私は筑紫万葉の里(福岡県)で育ち、万葉研究の拠点である國學院大學で学び、そこで身につけたもので長い間、仕事ができています。万葉時代の都、奈良の大学で29年もの間、研究活動に取り組むことができたのも、本当に不思議なご縁です。そして母校に戻って来ました。還暦を過ぎた今も、こうして令和の学生と触れ合い、彼らの感性に刺激を受けながら、万葉びとの心に寄り添うことができているのですから、幸せな人生です。
大学教授というと、さぞかし学業が優秀だったのだろうと思われがちですが、私の学生時代の成績はひどいものです。しかも、中学校の国語の成績は5段階評価で3でした。受験や採用試験では人並みの苦労をしています。それにもかかわらず、置かれた場所で咲くことができたのは、好きな道を選んだことが幸いしていると思います。
コロナ禍の前に、文化勲章を受章した中西進先生(国文学者)とともに講演をしました。系列校の國學院大學栃木に行った時のことです。中学生から「国語が全然おもしろくありません。点数も上がりません。どうすれば点数が上がりますか」という質問が出ました。中西先生は「そうですか。国語はおもしろくありませんか。困りましたね」と受け止めると、「点数を上げることも大切ですが、先に国語を好きになってほしいです」と答えました。
「好きになる」ということは「心が惹かれる」ということです。自分の仕事に置き換えて考えてみると、研究活動も研究対象に対する愛情がなければ続きません。その気持ちをいかに持ち続けるか、が極めて重要です。学生たちにも「万葉学は、なぜそういう表現が生まれたのか。なぜその表現に感動するのか。そういうことを考えて明らかにしていく学問だから、自分がどう感じるかが大切だよ」と話しています。何事も、自分の心が動かなければ何も見ることができないのです。逆に言えば、好きでさえあれば人が見ていないものまで見ることができるかもしれません。そのチャンスを与えてくれるのが、そこで出会う人たちです。
久我山には学ぶ環境があります。クラブ活動も盛んです。久我山生は、久我山を好きになれば、向上心をもった人たちとの出会いがあるはずです。実は私も久我山で古典を教えていた時期があり、そこで忘れられない教え子との出会いがありました。ロッテマリーンズ監督の井口資仁さんです。彼の漢文の授業を担当し、授業に臨む姿勢に感銘を受けました。常に堂々としていて、礼を尽くす生徒でした。おそらく野球以外の道に進んでも大成したと思いますが、小柄ながらも、さまざまな技術を身につけて日本を代表するプロ野球選手になりました。そこにはまちがいなく野球を愛する気持ちと、並々ならぬ向上心があったはずです。そして数々の出会いによって、メジャーへの道が拓かれたのだと思います。
最後に中高生の皆さん、「世界を知ろうと思う者はまず足元を見つめよ。」大切な今の時期に、ぜひ実践してください。
【取材日/令和4年4月14日】