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私の被爆体験 –忘れられないあの日– 山脇佳朗氏 @ 3/12 男子高校2年修学旅行第4日

2018年3月14日


  

   男子部高校2年 修学旅行(第4日)平和学習
 
    私の被爆体験 –忘れられないあの日–
 
       長崎平和推進協会・継承部会 

               山脇 佳朗氏
 
           平成30年3月12日(月) 9:25-10:25
                長崎原爆資料館ホール
  
 

 
私は爆心地から2.2㎞の自宅で被爆しました。
ちなみに、私は現在の天皇陛下と同じ歳で、当時11歳、今の小学6年生の夏の出来事でした。
 

 
まず最初に、原爆開発の歴史について確認しておきましょう。
アインシュタインもその後、広島・長崎の実状を知って、その科学技術が戦争に使われたことを後悔していたとききます。
また、忘れてはならないことは、この開発計画であったいわゆる「マンハッタン計画」については、一般市民はもちろん軍人たちも含め、ほんの一部の人間たちだけしかその事実を知らされていなかったという点です。
さらに、他国の若い方々の多くが、広島に次いで長崎にも原爆が投下された理由は、日本がなかなか降伏しなかったからと認識しているようです。しかし、実際には当時原子爆弾は、ウランとプルトニウムそれぞれによる2つのタイプが開発されていました。おそらく、その両方の威力を立証したかったというのが本当の理由であったろうと思われます。
 

 
それにしても、投下される前にポツダム宣言(無条件降伏)を受諾した上で、今後のこの国の行く末について相手の国々とも協議していたならこの惨劇は少なくとも生まれなかっただろうと思うと残念でなりません。
 
さて、いよいよ原爆投下の日についてのお話に移りますが、そもそもなぜこの長崎の地が選ばれたのかですが、すでにその前年、昭和19年の11月頃から日本の主要都市である各地に爆弾が落とされ始めていました。そして、敗戦の年の昭和20年に入り、3月10日は首都東京が大空襲により10万人もの犠牲者が出たのです。
一方、その頃までに長崎は目立った攻撃は受けていなかったのですが、7月に入り3回小型機が飛来しました。おそらく候補地の偵察を行なっていたのでしょう。
そして迎えた当日、B29は本来第一候補地であった小倉上空に達していたのですが、現地は雲が厚く垂れ込め、投下予定地点を視認することができず、比較的視界の効いた第二候補の長崎に目標を変更することになりました。
 
今でも、不思議だったのは、長崎にはその朝に「空襲警報」が発令され、多くの市民が防空壕に避難していました。しかし、その後なぜか「警戒警報」に変わり、そのまま投下の時を迎えてしまうことになったのです。あの時、そのまま「空襲警報」が持続していたら少しは被害が軽減されたものだろうと思います。
 
当時、私の家族はエンジニアとして工場長でもあった父のもと、兄と私と双子の兄弟、さらに田舎の佐賀に疎開していた母と妹・弟四人の計9人の生活でした。したがって、その日の朝、稲佐山の麓にある自宅では、男ばかり4人が目を覚ましました。朝食を取ると、父はいつものように工場へ。中学生の兄も兵器工場へ手伝いに出かけ、私と双子の兄弟が家に残っていました。
 

 
夏休みだったこともあり、私たちは、11時直前まで縁側にいました。腹が減ったので、奥の茶の間に移って卓袱台についたその時、青白い閃光が家中に走り、続いて家を揺るがすような轟音が響き渡りました。私たちは、にわかに畳の上に伏せました。その身体の上に、容赦無く次々と瓦や壁土などが崩れ落ちてきました。その後、顔を上げて見回すと、家の中の様子が一変していました。屋根も吹き飛び、空が見えていました。近所の家もみな同じように壊れ、父の工場がある港の方角も土煙におおわれていました。
 
私たちは庭にあった防空壕に一時避難し、父と兄の帰りを待っていました。一時間ほど経ったころ、兄が工場から戻ってきました。そして私たちに「こんな防空壕では危ないから、隣組の大きな防空壕に避難しよう」と言いました。しかし、その崖の下に掘られた防空壕は、すでにひどく負傷した近所の人たちで一杯でした。
 

 
一晩中、私たちはそこで不安な思いのまま父の帰りを待っていました。しかし翌朝になっても帰ってきません。そこで、私たちは父を迎えに行くことにしました。勿論、落とされた爆弾が原子爆弾であることも、爆心地から父の工場のすぐ近くであることもまったく知らなかったのです。

工場に近づくにつれて、被害の状況はひどくなっていきました。ほとんどの家は焼けてしまい、電柱や街路樹は立ったまま黒焦げになっていました。父の工場は、焼けた針金細工を潰したような姿に変わり、大きな柱だけが傾いて立っていました。
 
道路上には瓦礫の間にたくさんの人々が死んでいました。その顔や手足は黒くふくれ上がり、皮ふに靴が触れると、熟した桃の皮をむくようにぺロリと剥げて、白い脂肪の部分が現れました。また、川の中にも、たくさんの遺体が浮いていました。その中でも若い女性が白い帯のようなものを引っぱって浮いている姿に目がひきつけられました。よくよく見ると、それは脇腹から飛び出した腸だったのです。また、6,7歳くらいの男の子が白い束をくわえて死んでいました。こちらもよく見ると、それは彼の体内から一斉に飛び出した回虫だったのです。私たちは、たまらず走りだしました。
 
そうしてようやくたどり着いた父の工場では、スコップを持って作業している人が3人いました。父のことを尋ねると、作業をしていたひとりが振り返り「ああ、山脇さんだね。お父さんはあっちで笑っているよ」と崩れ落ちた事務所の方を指差しました。しかし、そこで見たのは、ほかの人と同じように黒くふくれた父の遺体だったのです。少しその口元は微笑んでいるようにも見えましたが。
 
茫然と立っている私たちに、スコップを持った人たちがこう言いました。「お父さんを連れて帰ろうと思うなら、ここで焼かないと駄目だよ」と。仕方が無いので工場の焼け跡から、燃え残りの木材を集め、そこで火葬することにしました。炎の中から父の足首がふたつ突き出していました。それを見ているのは耐えがたいことでした。会社の人たちが「今日は帰りなさい。明日あらためて、骨を拾いに来なさい」と言ってくださいました。
 
翌朝、私たちは壊れた家の台所で、見つけた壷を持って、また3人で父の遺骨を拾いに行きました。意外なことでしたが、私たちはもうどんな屍体を見ても昨日ほど怖く感じません。それらは、かえって歩く障害物としか見えなくなっていたのです。
  
しかし、昨日父を焼いた場所に着いたとき、父の遺体は半焼けのまま、灰に埋もれていました。会社の人たちはもう誰も居ませんでした。骨を拾おうとすればすれほど、半焼けの父の遺体はあらわになりました。骨はほんの少ししか拾えませんでした。それが、一緒に食事をしたり、話し合ったりした父親だと思うと、尚更、辛いものでした。
そんな父の遺体を見るのが耐えがたくなって、私は「お父さんはこのままにして帰ろうよ」と兄に言いました。いま思うと、それがよくなかったのです。しばらく、父の遺体を見つめていた兄がこう言いました「仕方がない、お父さんの頭の骨を拾っていこう」と。兄は持っていた火箸で、父の遺体の頭蓋骨に触れました。すると頭蓋骨は石膏細工を崩すように割れ、半焼けの脳が流れ出したのです。
さすがに兄も、悲鳴をあげて逃げ出しました。私たちも続きました。私たちはこんな状態で父の遺体を見捨ててしまったのです。

被爆の日、幼い弟妹をつれて、田舎の実家に行っていた母は、その後生き抜いて97歳で亡くなりました。しかし、父の遺骨を拾い集めようとしたこと、半焼けの頭蓋骨が割れて脳が流れ出し、逃げ帰ったことについてなど、父の最期のことは、とうとう母に話すことができませんでした。
実は、この母というのが、育ての母でもありました。私たちを生んでくれた母は、2歳のとき亡くなり、以来ずっと私たちの面倒を見てくれたのがこの母だったのです。

父が亡くなったあと、私たち双子の兄弟は働き始めました。15歳でした。それから45年間、60歳になるまで働きました。その間、原爆病院に15回入院しました。また、胃ガンにもなり切除手術も受けました。これも被爆の影響だと思っています。
 

 
ある大学の先生は「原爆は3度人を殺した」とおっしゃいました。原爆が持っている三つの武器(熱線、爆風、放射線)の恐ろしさを如実に表現した言葉だと思います。

私は定年後、11歳のときに自分が味わったこの残酷な悲劇を、もう誰も体験して欲しくないと願い、それまで話すことすらできずにいた体験談を積極的に伝えるような運動に加わりました。その後、国内にとどまらず、海外の方々にもお伝えする機会が増えてきました。最初のうちは、通訳を通してお話していましたが、どうも違和感を覚えるようになり、65歳から70歳にかけて英語を勉強し、自分の言葉で話すように心がけました。
 

 
そして特使としてアメリカのマンチェスターでも現地の方々に直接体験談をお話する機会も得ました。自分で何かをしようと思えば、それは必ず叶うということ、さらにあの原爆よりはるかに威力のある核兵器がまだたくさん保有されているという現実、そしていまだに戦争や内紛なども続いていることなどをその後も訴え続けています。
  
どうしたらこの地球上から核兵器を無くすことができるのか、そして全てのもとである戦争を無くすことができるのか、そのことを皆さんにも考えていただきたいと思うのです。戦争のない平和な世界を築くために。
 

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