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少年の心『如己堂随想』より  〜男子部高校2年〈修学旅行〉を前に〜

2017年3月1日

本日から弥生三月。
  
他学年に先がけて、今年度の授業も今日で終了し、来週(女子8日〜・男子9日〜)からいよいよ〈修学旅行〉へ出かけることになる高校2年生
今年は、コースも男女でそれぞれに変更され、訪ねる場所も随分異なることに。
それでも、男子部は従来のコースに「平戸」を加え、北九州を余すところなくたどることに。
 
その中でも、終日「班別自由行動」が予定されている「長崎」では、ぜひ訪れてほしい場所があります。
 
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    「如己堂」 ~ 昨年の「修学旅行」にて ~  
 
わずか二畳一間の小さなそれは、浦上天主堂の近くに記念館とともに当時のままそっとたたずんでいます。
1908年に島根県に生まれた永井隆博士は、長崎大(現在)ではもともと内科医を目指していましたが、急性中耳炎にかかり断念、放射線医学の道に転向します。
戦争も終盤の45年6月、過度の乱放射線被曝により白血病を発症し、余命3年を宣告されます。
そして迎えた8月9日。自らも重篤化しますが、同時に、妻に先立たれてしまいます。
被爆地長崎の街中にあって、2ヶ月間は被災者の救援活動にあたりましたが、その後はとうとう寝たきりの状態になってしまいます。
そうした状況下にあって、『長崎の鐘』や『この子を残して』など、17冊もの本を執筆し、その売り上げ金を、長崎市復興のために寄付しました。
また、被爆地浦上を花咲く地にと桜の苗木1000本あまりを寄贈したり、戦争孤児らのために小さな図書館を建設したり、51年43歳にて永眠するまで献身的に長崎の、さらに被爆者のためにいろいろな形で力を尽くしました。
その晩年の48年、博士を慕う信者たちによって建てられたのが、「如己堂」でした。
その名は、新約聖書のマルコ福音書にある「己の如く人を愛せよ」からとったものとされています。
まさに、「如己愛人」こそ、永井隆博士の生き様そのものといえましょう。
 
さて、実際にその堂のかたわらに立ってみると、そのあまりの窮屈さに驚きを隠せないことでありましょう。
さぞかし、不便至極にして苦しい闘病生活であったこともまた想像に難くないでありましょう。
 
しかし、当のご本人は、このわずかな空間のなかにこそこの上なき「自由」があり、
そしてここでの生活の御陰で、だれもが忘れてしまいがちな「少年の心」を取り戻すことができたと述懐しています。

 
 
    『如己堂随筆』:「如己堂随想」より
 
…少年は――しよう!としか思わない。朝床にすずめの聲(声)をきけば、よし今日は晴だぞ、野球をしよう、と思い樂(楽)しみ、とび起きる。雨が軒びさしをうつ音がひびいておれば、しめた、うなぎが釣れるぞと、胸おどらせて布團(布団)をはねのける。どんな條件(条件)の下でも、いつも今日のこれからの番組に大きな期待をかけて、あれをしよう、これをしようと、絶えずうれしい。うれしいから仕事もすべてすらすら出來(出来)る。――この少年の心を一生持ち續(続)けたら、どんな樂しい人生となるだろう?――
  (中略)
 一句を作らんとする樂しい情熱――それを一日中の仕事にまでおしひろめてゆけば、どんなに樂しいだろう。仕事場がどんなにうれしさに充ちてくるだろう。教室がどんなに樂しくなるだろう――
 生活の俳句ということをよく云われる。しかし俳句の生活という處(処)まで進みたいものではなかろうか?――俳句をつくることによつて生計を立てるのではない。がちやがちやした工場や、ぴちぴちした漁船の上や、ごみごみした小賣(売)店の日常二十四時間の生活そのものを俳句を作るときと同じ、眞劍(真剣)な氣持(気持)で、觀察(観察)し、美を見出し、賛嘆し、創作し、批判してゆくのである。
 ――私は今ようやく、そんな境地に達した。いや少年の心に立歸(帰)ることが出來た。一日の生活、それは六尺の寝床から一足も出られぬ生活ではあるが、それが實(実)に樂しい。「してはならぬ」の網にしばられず。「せねばならぬ」の鞭に打たれず。ただもう中から、底からあれをしよう、これをしようと勇みに勇んで仕事をしているから……

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